富岡製糸場
大河ドラマ「青天を衝け」の第31話に登場した群馬県の富岡製糸場。
昭和30年代に富岡製糸場(その当時は片倉製糸)で働いていた母が、
「仕事は大変じゃなかったし、寮生活含めて、むしろ楽しすぎるくらいだったのに、
製糸場というと「女工哀史」「あゝ、野麦峠」のイメージか強くて残念」といつも言っていて、
私も「女工哀史も事実だろうけど、製糸場すべてがそれと思われるのもなー」と、なんだか悔しい気持ちでいたので、
大河ドラマの公式ツイッターで、
「1日8時間勤務、日曜休暇、有給休暇、食費や寮費、医療費は工場負担など、労働環境に恵まれていました。」
と説明されていて、ちょっとうれしく思いました。
◆【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 (@nhk_seiten) | Twitter
◆富岡製糸場 | しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ
◆片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史 ―
といっても、母から若い頃の話をあまり聞いていなかった弟は、
割と最近まで「母さんは娘時代に過酷な仕事をしていてかわいそう。その頃のことはあまり聞いちゃいけない」
と思っていたらしいので(苦笑)、
家族でもそうなんだから、他人に知ってもらうのは難しいよねーと思います。
ってことで、母から聞いた富岡製糸場(片倉)時代の話、
もしかしたら、どこかの誰かの役に立つこともあるかもなので(?)、メモに残しておきます。
※あくまで個人の記憶&感想ですので、その点はご了承下さいませ~。
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母は昭和16(1941)年生まれ。
富岡製糸場(片倉)で働いていたのは、昭和30年代で、中学卒業から結婚する少し前までの約6年間。
通っていた中学校(新潟県)に求人が来て、就職が決まった。
同じ地域の中学校から、他に何人も就職していた。(俗に言う「集団就職」?)
就職してからも、中学校の先生は年に一回製糸場に来て、所長さんなどを交えて応接室で面会した。
会社では寮生活。
寮は3~4つあって、「かぶら寮」「あさま寮」などの名前がついていた。
入寮しているのは、ひとつの寮に250人くらい。
入社してすぐは、同時に就職した人達と同室で、慣れてきたら年上の先輩と同室になる。
働いているのは、群馬、新潟、長野の人が多かった。
仕事は、5:00~13:00、13:00~20:00の2交代制で、寮ごとのローテーション。
残業はなし。
日曜日はお休み。
正規の仕事の他に、不定期で、まゆ運びや道具洗いの「アルバイト」の募集がかかる。
簡単な作業で、給与以外の賃金が出るので、皆、遊ぶお金が欲しいときなどにやっていた。
敷地内には講堂や教室があって、
勤務時間外には、勉強(国語とか数学とか)や和裁、洋裁、料理などの教室があり、
費用は会社負担で、いろいろ習うことができた。
寮にも、花嫁修業のようなことができる「家庭寮」(普通のおうちに近い間取り)というのがあり、
そこにお呼ばれして、先輩の作ったお料理を食べたりした。
仕事がお休みの日は、駅前にあったダンスホールや映画館、図書館などへ。
(母は、これがきっかけでダンスが好きになり、結婚後もずっと社交ダンスの教室に通ってました)
出かけないときは、図書館で借りた本を読んだり。
年に一回、バス5台くらいを連ねて、東京や日光などに旅行。
地域の運動会にも参加。
成人式も、会社でやってくれた。
会社を辞めてからも、毎年OB会があって、会食をしたり記念品をもらったりした。
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とまあ、こんな感じ。
母は、和裁や洋裁、編み物、料理が割と得意で
(裁縫が苦手な私は家庭科の宿題でよく手助けしてもらった💦)
早くに親元を離れたのに、どこで覚えたんだろう?思ってたけど、
会社が学校のような役割もしてたんですねえ。
片倉製糸時代のこと、母は、本当に楽しそうに話すので、
(同室だった人とは今も友達づきあいしているみたいだし)
またいろいろ聞いてみたいと思います。
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